緑ヶ丘学院創立78年おめでとうございます。
「みどりの大使」一同心からお祝い申し上げます。今回、式典会場に活けられたお花は46期卒業の勅使原和風会代4代家元の勅使原和風(勅使原光衣さん・みどりの大使)さんの作品です。
第1回にご紹介するお2人の在学中の事、卒業後のご活躍の事を載せさせていただきます。
(みどりの大使代表 小泉美枝子)
【一人目の大使】
お名前:ミキクラーク
卒業時の担任:三木一郎先生
こちらは、経歴のみとさせていただきます。
以下経歴
〇5歳からキッズモデルの仕事を始め、NHK「英語で遊ぼう」「紅白歌合戦」キッズバックダンサーや子供服カタログのモデルなどを務める。
〇高校では部活に専念するために活動を休止。卒業後に再開。
〇Benesse教材 こどもちゃれんじEnglish うたのおねえさん MIKI先生役
〇Benesse しまじろう英語コンサート メインキャスト
〇Benesse "My First English"歌、ライブ配信
〇Benesse教材 World Wide Kids うたのおねえさん
〇NHK Eテレ 高校講座ベーシック英語 ナレーション&ゲスト出演
〇NHK Eテレ 即レス英会話 英語教師役
〇NHK World"Japan Railway Journal" MC&ナレーター
〇Sanrio、Benesse、Pokemon、デジモン、大阪万博 歌&ナレーション&声優
〇幼児向け玩具 歌etc.
【二人目の大使】
お名前:大橋祥宏
卒業時の担任:田中正己先生
メッセージをいただきましたので、項目ごとに掲載いたします。
①緑ヶ丘卒業年度について
緑が丘学院中等部を卒業は昭和26(1951)年3月でした。緑ヶ丘学院の誕生は吉井貫一先生の評判が高く、男は栄光学園、女は清泉学院と比べながら入学をしました。中学が義務教育になったばかりでしたから、月謝を払って私立の学校にいくのですから、親もすすめる先生もこの学校の誕生はまっすぐに受け止めきれた素晴らしい学校でした。
②最終学年の担任の先生
担任は田中正己先生が1年の後半から3年までの担任でした。1年生のはじめは予科練崩れの若い先生で「おれはもっと立派な学校の先生のはずなんだ」といばっていて、精神注入棒とかのこん棒で男子生徒を次々とヒッパタイテいましたが、いつのまにかいなくなった先生でした。その後、田中先生は男子がいないのは残念と言ってやめていったのでした。
③卒業後のご経歴
県立横須賀高校には50名弱の生徒のうち30名くらいが入学しました。高校ではGHQが禁止していた柔道(武道)などが許されたので飛びつき、後輩に猪熊君が入学してきて先輩!と慕ってくれました。私は國學院大學文学部にやっと入学(1年浪人)。おかしなことに特待生で返済無しの奨学金を4年間いただきました。仕事はジャーナリストを目指しましたが、4年は全国の小学校の先生が使う教科書準拠の解説書出版社で働き、その後は旺文社の赤尾好夫氏とのご縁で出版団体の財団法人日本出版クラブで事務局長・専務理事を71歳まで40年勤めました。団体は大敗戦で迷って、GHQに私は戦争犯罪者ではないでしょうかと聞きに行った社長や戦争反対の活動でいじめぬかれ社員が殺された社長など様々で四百数十名の会員に深い亀裂がありましたが、私は初めに「出版クラブだより」の会報を発行して会員交流をスタートしたのでした。次には立派な新会館でしたが結婚式場が大失敗を続けたのでした。たまたま私は友人の結婚の司会を次々と頼まれ、14~5人の婚礼の式場を見て回っていましたので早速会館にも手出しをし、大安の日には7組の結婚式をやり遂げ見事な収入源を作り、コック連中の大抗議もしっかり納め、会報でも結婚式の方法解説もやったのでした。おかげで結婚の豪華本も出版して3000冊を売り切りました。この会館の好成績で赤尾さんは河口湖に研修所を作ることを希望したので、研修所も見て回り、出版の研修も著作権や本の販売方法など材料はたくさんあって研修所も大繁盛で、メンバー出版社の協力も盛んになり、出版クラブは大いにぎわいでしたが、もう一つ重要な時代を写す大仕事もやり遂げることができたのでした。
それは終戦直後のアメリカが出版、新聞、放送、映画などの検閲を徹底的にしたのですが、日本が平和条約を結ぶときには終了して、本などは廃棄が決まったのでした。その時にプランゲさんというマッカーサー元帥の秘書で軍人・学者が「私が欲しい」と言って全部の本を木箱に収め、一隻の軍艦に山積みにしてアメリカのメリーランド大学に運び込んだのでした。日本としてはこの時の本はどこにもないのです。国会図書館も順次複写をさせてほしいという話し合いや現物の視察などを始め、共産党は日本のものは日本に帰してくれと主張を始めたのでした。そこで私は出版界としての対応を考え、まずはプランゲ文庫の実態を知ることだと学習会を始めたのです。これにメリーランド大学から真面目な取り組みだから交流をしたいと連絡が来て、研修会などと同時に会報連載も始めたのでした。
④創立80周年に向けての言葉
緑ヶ丘学院が再来年80周年を迎えられること、まことにおめでとうございます。大田順子理事長の崇高な女子教育への一途な思いが見事に結実されているのでおめでとうございますのご祝福を申し上げ、有難うございましたと深く感謝も申し上げます。
私にとって緑ヶ丘学院の3年間は私を真に男としての自信と勇気を育てていただいたところだと信じて感謝を忘れません。この道には高菜先生と秋本龍美先生が導き人でしたが、ことに秋本先生には生涯をかけてご指導をいただき、出版界での恐れない生き様と60代のなかばから71歳までの8年間を昭和女子大で毎週1日の午後、250名以上の大教室で出版学と著作権の2講座を教えたのでしたが、坂東学長に感謝をされました。私は秋本先生をならって自分が教えられる教室ととらえて励むことができたのでした。己は一本の釘と任じて頭を叩かれてまっすぐに打ち込まれる心がけで向かいました。
本の出版ですが身近な人や団体の本はあちらこちらから出版してもらいました。横須賀学の会も作り「横須賀の経済史」(商工会議所)、横須賀の戦後復興を支えた司令官デッカーさんの自伝「黒船の再来」の翻訳、観音崎での観察ノート「フネ ふね 船の力」、阿部志郎先生の自伝「愛し愛されて」、自分の作では「林檎の友」、「息子よアメリカは父さんの敵だった」、「結婚」の3冊です。